若松さんとの出会いある日若松さんが「CBSソニー」の一室で、デモテープを聞いていた。
デモテープは「CBSソニー」と「ミス・セブンティーン」誌の共催でアイドル歌手を発見しようというイベント「ラブアイドル・アタック」の地区大会に出場した人たちのものだった。
彼は数日後に東京・中野サンプラザで開かれる決勝大会の前に、それらのテープを聞いておこうと思った。
決勝大会に残らなかった子たちの中に、ときとして「これはいける」と思う歌があるからだ。
100曲近いテープを聞き終わった頃、次のテープを聞きはじめてハッとした。
桜田淳子の「きまぐれヴィーナス」を歌ったテープだった。
後の松田聖子である蒲池法子の歌ったものだった。
若松さんは宣伝部へ問合せた。
「九州地区大会で優勝した子なんですけど、彼女の父親が決勝大会に出場することに猛反対なんです。」「地区大会も父親に内緒で出場したららしいんですよ。だから決勝大会には出られないと言う連絡がありました。」
この答えを聞き一瞬気落ちしたが彼は直接、久留米の自宅に電話をすることにした。
その後直接会うことになり歌手になれることを確信。
その日の父親のもとへ向かい説得をはじめる。父の芸能界への不信感はこうだった。
「芸能界は怖い所。甘い言葉に欺されたあげく、スターを夢見る本人はもちろん、家族まで駄目にされてしまう。」
若松さんの仕事は父の説得になっていた。
説得をはじめて半年もたつ頃、自信もぐらつき諦めかけた。
本人の歌手になりたい想いに圧倒され、説得を続けるが1年半もの時間がかかった。
こうして昭和52年02月、父から若松さんへ電話が入った。
改めて相談したいから、久留米に来てくれ」と言うことだった。
そして正式に芸能界入りを認める返事をもらった。
若松宗雄当時、CBS Sony Recordsプロデューサー(企画製作六部次長)